History
- ヒストリー
中村龍太(複業家/コラボワークス代表)
1964年広島県生まれ。日本大学卒業後、1986年に日本電気入社。1997年マイクロソフトに転職し、いくつもの新規事業の立ち上げに従事。2013 年、サイボウズとダンクソフトに同時に転職、複業を開始。さらに、2015 年には NKアグリの提携社員として就農。現在は、コラボワークス、サイボウズ、自営農家のポートフォリオワーカー。2016年「働き方改革に関する総理と現場との意見交換会」で副業の実態を説明した複業のエバンジェリストとして活躍中。
略歴
-
-
1964
-
-
広島県出身
転勤による転園転校、幼稚園2園+小学校3校+中学校2校
-
広島県出身
-
1979
-
- 安田学園高等学校入学
-
1982
-
- 日本大学生産工学部入学
-
1986
-
- 日本電気に入社
-
1991
-
- 社内結婚(農家の娘を嫁に)
-
1997
-
- マイクロソフトに転職
-
2009
-
- 経営情報学会に活動復帰
-
2013
-
- ダンクソフトとサイボウズに同時に転職、複業開始
-
2014
-
- 日本パエリア協会会員
-
2015
-
- NKアグリの提携社員
-
現在
-
-
コラボワークス、サイボウズ、自営農家で活動
フリーランス協会でパラキャリの伝道師
-
コラボワークス、サイボウズ、自営農家で活動
-
「好きと生きる」を実践してきた “龍太”
みなさんに僕という人間がどのようにできあがったのか、人となりをお伝えしたいと考えました。一番よい方法はなんだろう? と考えてみたところ、自分の生きてきた人生を語るのが一番ではないかと思い、半生を振り返ってみました。
そんなに長くはなりません。お茶でも飲みながら、しばしお付き合いください。
おとなしかった
子ども時代
小さい頃はレゴが好きで、外に出ずに1人でレゴブロックを作っているような子どもでした。人と話すのはキライで、転勤も多かったので、友達もあまりおらず、できても、すぐ自分が転校していなくなる……という、幼少期をすごしました。
そんな中で、続けていたことは放送部に所属することです。昔から放送部が好きで、小学生からずっと、どこに転校しても放送部に入っていました。
「お前やれよ!」って、言われる体育会系のノリが、僕はちょっと駄目なんです。放送部だと組織がフラットなんですよね。機械を触る人、構成を考える人、しゃべる人というように役割が分担されていました。職人的なフラットな組織体が好きなんですが、この頃から好きだったんだと思います。
高校受験の
失敗がすべて、
今の自分に
繋がっている
実は僕、高校受験に失敗してしまったんです。えらい偏差値が高い公立高校の受験を背伸びして選択したんですが、不合格。結果的に滑り止めで受験していた高校に行きました。僕は普通科でしたが、機械科とか情報処理科など、いろんな科の人が集まっている学校でした。
ここでもやっぱり放送部に入ったんです。情報処理科の先輩が、当時、40万ぐらいしていたApple IIをバイトして、買っていました。「インベーダーゲームがタダでできるんだ!」みたいな話からはじまって、コンピューターにのめり込んでいきました。
結局、自分でも「コンピューター使えるとかっこいいかも!?」と思って、コンピューターを買いましたよ。高校3年の大学受験のときに買ったから、おやじから怒られましたが(笑)。NECのコンピューターを買って、プログラムを組んだり、ゲームをしたりしていました。
このコンピューターとの出会いがなかったら、今の人生はないと思います。
「好きと生きる」
のすゝめ
大学はITとは直接、縁のない管理工学科でしたが、情報処理研究会の部活でプログラミングを学び、コンピューターの経験があったからNECに入ろう思いました。うまく入社できて、そこで、嫁さんと出会います。彼女が「農家の娘」でした、と話が繋がっていくわけです。だから、受験に失敗していなかったら、「IT×農業」を掛け合わせた、今の自分はないんです。
こうして振り返ってみて思うのは、レゴにしろ、放送部にしろ、コンピューターにしろ、やっぱり僕は「好きと生きる」を常に選択してきていたということです。
勝ち負けがキライ
逃げたから、
新しい土俵で
活躍できた
あと僕は、昔から勝ち負けって大嫌いなんです。負けるのが嫌いで、負けるということに関して、すごく嫌な感情があり、とにかく負けるところから、そして勝負の場から逃げたい自分がいる。
しかし、あるときキャリアの相談をしていた女性コンサルタントから、「それは逃げではなくて、何か新しいものの土俵を作りに行っているわけですよね」と言われました。
そのアドバイスで、同じ土俵で勝ち負けになってしまうより、違う土俵で新しいものを作って、みんなから「すごい!」と言われるほうが「好き」なことに気づきました。常に「すごい!」を求めて、違う土俵に逃げて、また新しいことをはじめるのが僕。逃げて逃げまくるの先に、新しい土俵があり、そこで活躍してきました。逃げた結果、「すごい!」と周囲から言われるようになったのが、今の自分です。
人から「すごい!」と言われると嬉しいものです。また、その人たちと一緒にやりたくなる自分がいました。同時に、興味なくはじめたことでも「好きになっている」自分もいました。不思議と「好き」が育まれていったのです。
複業・パラレルワークの期間中、「自分が好きでできることが他人とって欲しいことに重なる」という、ステキな「スキデキ」体験をしてこれました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
「できる」ことが
「好き」になり、
事業になったことも
今は事業として取り組んでいる農業にも、当初、あまり興味がありませんでした。しかし、嫁さんの実家からお米を毎年もらっていたから、田植えや稲刈りはしたほうがいいかなと思い、農作業をはじめました。
田植えや、稲刈りを実際に体験してみると、稲を刈ったあとの行程も全部プロセスになっていることがわかりました。小さな工場だと感じ、農業が面白くなっていきました。そうこうしているうちに、当時勤めていたマイクロソフトの同僚から、田植えと稲刈りのイベントを依頼されて、毎年開催するようになりました。
イベントには、会社のことでモヤモヤした人が来たりもしました。しかし、実際に来てみて、土をいじっていたりすると、元気になって帰っていったのです。それを見ていて、「農業」は人を癒す可能性があるんじゃないか、面白いなと感じるようになり、今の事業に繋がっていきました。
コラボすることにより自然に成果が出る
小さい頃から、僕は「好きと生きる」を選択してきましたが、本当に「好き」だったものもあれば、こんな風に、「できる」ことが「好き」になることもあります。
また、できないことは、人とコラボすることで、楽しめば良いのではないでしょうか。何か達成しないといけないことがあった場合には、それぞれが、自分のできる「好き」を持ち寄れば自然に成果が出ていきます。自分ができることは50でも、足りないところは一緒にコラボしていく人と100にしていけばいい。自分の「好き」を提供していき、一緒に作って行けばいいのです。
これが、僕の「好きと生きる」の考え方です。
こんな僕と一緒に、人や組織や、社会そのものを「好きと生きる」の世界に変えていきませんか。必要なのは自分のスキルを認めること、最初はそのスキルが好きじゃないかもしれません。それでもいい。自由に自己表現していいのです。ぜひ、一緒にコラボして、新しい働き方を実践していきましょう。